
太平洋海戦史
トラック島空襲1944.2.17
1944年2月初旬、米軍は中部太平洋のマーシャル諸島を占領。メジュロ環礁に米艦隊の拠点としたことから、連合艦隊の拠点として重要な役割を果たしてきたトラック諸島はきわめて危険な状況におかれることとなった。2月4日、米大型機がトラック島に偵察をしたことにより連合艦隊司令長官古賀峯一大将はトラックが空襲を受ける可能性が強くなったと判断した。2月10日、トラックに在泊していた連合艦隊主力は、フィリピンに近いパラオ環礁に移動した。
米軍は防備堅固なトラック強襲をさけ、空襲によって無力化する方向へと決定した。7月12日レイモンド・スプールアンス中将率いる第58任務部隊(空母5隻,小型空母4隻、戦艦6隻、巡洋艦10隻、駆逐艦28隻)はトラック空襲のために出撃した。これに先立ち潜水艦部隊によるトラック島封鎖も同時に配置、2月16日、潜水艦「スケート」はトラック島を出港した軽巡「阿賀野」に対して雷撃、撃沈して戦端を開いた。
2月17日午前3時10分、第58任務部隊トラック島上空の制空権を得るために攻撃第1波として戦闘機78機を発進させた。トラックの基地レーダーは米機編隊をとらえたものの迎撃が遅れ零戦可動機40機のうち半数が撃墜破された。基地上空の制空権を握った第58任務部隊は、午前5時から午後5時まで延べ450機の艦載機を発進させ、トラック島の地上施設と残存艦隊に対して徹底的な攻撃を加え壊滅的打撃を与えた。さらにスプールアンス中将は自ら第58任務部隊第9群(戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」基幹)を率いて、トラック島を脱出する軽巡「香取」と駆逐艦「舞風」を屠り、翌2月18日作戦は終了した。
2日間の空襲で、地上施設は徹底的に破壊され、基地機能は完全に喪失した。さらに航空機約270機の喪失に加え、沈没艦船は軽巡「那珂」「香取」駆逐艦「太刀風」「追風」「文月」「舞風」特設巡洋艦3隻、水上母艦2隻、194000トンにものぼる輸送船31隻であり、米軍の被害は空母「イントレピッド」が雷撃により中破、戦闘機12機急降下爆撃機6機、雷撃機7機にとどまった。