太平洋海戦史


マリアナ沖海戦1944.6.19〜20

 1944年5月3日、豊田副武大将が連合艦隊司令長官に補任された。豊田総長は着任早々、絶対国防圏に対する米軍攻勢を撃破する「あ号作戦」を発令した。「あ号作戦」は、決戦海域に機動部隊と基地航空機を集中して来襲する米空母部隊および攻略部隊を撃滅するという作戦で、第3艦隊司令長官の小沢治三郎中将率いる第1機動部隊が「あ号作戦」の主力で、編成は大型空母3隻「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」、中型空母2隻「隼鷹」「飛鷹」、小型空母4隻「龍鳳」「千歳」「千代田」「瑞鳳」、また艦載機400機以上と連合艦隊がこれまでに編成できた最大の空母機動部隊となった。しかし、技量は米潜水艦の跳梁と燃料不足から満足する訓練ができず、練度不足は否めなかった。
 また基地航空隊は角田覚治中将の第1航空艦隊で、真珠湾攻撃以来の熟練搭乗員が温存されていたが、4月から連合艦隊司令長官を1ヶ月代行していた高須四郎中将の拙劣な指揮によって、北部ニューギニア戦やビアク戦に転用され1620機あった可動機が350機まで消耗してしまった。

 米軍の次なる目標は、中部太平洋の要衝であるマリアナ諸島攻略である。ここには旧領のグァム島があり、さらにここを基地にすることにより空飛ぶ要塞である「B29爆撃機」によって日本本土爆撃が可能となることから最重要作戦として実施されることとなった。上陸は、リッチモンド・ターナー中将が指揮し、レイモンド・スプルーアンス大将の第5艦隊(空母7隻、小型空母8隻、戦艦7隻基幹)が上陸を支援し、決行日は6月15日に予定された。
 6月6日、第5艦隊と上陸部隊はマーシャル諸島を出撃、6月11日、第5艦隊の空母機延べ470機がサイパン、ロタ、テニアン、グァム各島に対し大規模な空襲を加え、6月12日には約1400機が空襲し、6月13日、戦艦による艦砲射撃を開始。6月15日早朝、サイパン、テニアン島に上陸を開始した。
 6月15日午前7時17分、米軍上陸の報を受けた豊田長官は、「あ号」作戦を発動。フィリピン南方のタウイタウイで待機していた小沢中将の第1機動艦隊はマリアナへ向け出撃
、宇垣纏中将の「渾」作戦部隊と6月16日合流した。一方角田中将率いる第1航空艦隊は、「あ号」作戦を発動する前に連日の空襲により壊滅してしまった。可動機が350機あったがさらに減少し、零戦11機、彗星3機、天山11機、銀河10機にすぎなかった。

 6月19日午前6時30分、サイパン島西方海面に米空母部隊を発見、ただちに第3航空戦隊(
「千歳」「千代田」「瑞鳳」)から第1次攻撃隊(零戦14機、零戦爆戦43機、天山7機が発進攻撃に向かったが、戦艦1隻、重巡1隻を小破させたものの零戦8機、零戦爆戦31機、天山2機を失った。
 7時45分、第1航空艦隊から
第2次攻撃隊(零戦48機、彗星53機、天山29機が発進、戦艦1隻、空母1隻を小破させるにとどまり、またしても零戦33機、彗星43機、天山23機と攻撃隊の大半を喪失した。
 9時00分、第2航空戦隊から第3次攻撃隊(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機が発進、しかし攻撃目標を変更したために目標空母群が発見できず帰投途中に米戦闘機の攻撃を受け、零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機を失った。
 10時15分、第2航空戦隊から第4次攻撃隊(零戦20機、九九艦爆27機、天山3機が発進したが、米艦隊を発見できずグァム島に向かった。ところがグァム島空で上空で米戦闘機の襲撃を受け、零戦14機、九九艦爆9機、天山3機を失った。
 10時18分、第1航空戦隊から第5次攻撃隊(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機が発進、しかしこれまた米艦隊を発見できず、戦爆8機、天山1機が未帰還となった
 10時30分、第2航空戦隊から第6次攻撃隊(零戦6機、彗星9機が発進、このうち零戦2機、彗星6が米艦隊を攻撃したが何ら戦果を挙げることができなかった。零戦4機、彗星5機が未帰還となった
 11時20分、空母「翔鶴」が潜水艦「キャヴァラ」の雷撃を受け、魚雷4本が命中。爆発炎上の末、午後2時10分沈没した。
 午後2時10分、「大鳳」はタンクから漏れて気化した航空燃料に引火、大爆発をおこして4時28分沈没した。
 2隻の空母を失った小沢中将は、体勢を立て直すために全艦隊を北上させた。6次にわたる攻撃隊の戦果は、大半の攻撃機が未帰還となっため、米軍にあたえた損害の詳細は不明である。

6月20日未明より小沢機動部隊は索敵を実施していたが、午後4時15分第2時索敵で米空母を発見、攻撃隊として「天山」7機を発進させた。
 スプルーアンス
大将の第5艦隊はこの間小沢艦隊を捕捉できずにいたが、午後4時に発見、しかしそれは、攻撃半径外であったし帰還も夜になるところであったが、航空作戦を指揮するマーク・ミッチャー中将は攻撃隊の発進を決意、すぐさま戦闘機85機、急降下爆撃機77機、雷撃機54機を発進させた。
 午後5時35分の薄暮攻撃で空母「飛鷹」が撃沈され、空母「瑞鶴」「隼鷹」「龍鳳」「千代田」と残存空母の大半が損傷し、迎撃に上がった零戦23機が失われた。
 米攻撃隊の戦闘による損失は20機で、攻撃半径外であったため帰還途中の洋上不時着が80機であった。
 小沢機動部隊のほとんどの空母が撃破され、可動機が零戦21機、爆戦9機、九九艦爆9機、彗星6機、九七艦攻7機、天山9機の合計61機まで減少した。このため小沢中将は夜戦を企図したが、豊田長官から「あ号」作戦中止を下命され断念。沖縄の中城湾に引き上げた。

 マリアナ海戦は、その規模は太平洋戦争中最大規模の空母決戦となったが、その壮大さとうらはらに連合艦隊は拙攻に終始した。一つの例では、米艦隊はレーダー管制を敷き全戦闘機で直衛任務に就かせたこと。また日本機が必死にその直衛戦闘機群を突破し米艦隊に肉薄してもVT信管を装備した濃密な対空砲火で次々に撃墜されたこと。さらには、防御面を重視しないことから簡単に米軍の奇襲を受けたこと、とりわけ米潜水艦によりいとも簡単に空母2隻を沈められたことなどである。
 これ以降の戦局は、サイパン、テニアン、グァム各島は次々に陥落。11月24日サイパン島から飛び立ったB29は、中島飛行機武蔵野工場を爆撃。以降日本本土空襲を本格的に開始した。戦局逆転への手だてをなくした日本は、敗戦への道をひた走るのである。

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