
太平洋海戦史
神風特別攻撃隊(1944.10.25〜
比島沖海戦に敗れ、フィリピンの陸戦にも敗れ南方資源地帯との連絡を絶たれた日本には、艦を動かそうにも重油がほとんどなく、動きのとれない艦艇に容赦のない殺戮が行われていた。もはや、米軍を止める手だてはなく、通常の航空攻撃では、米艦艇を沈めることはできず、生還も期し難かった。刻々と本土に近づくアメリカ軍に対し、日本軍に残された最後の攻撃手段は、飛行機ごと敵艦に体当たりすることのみであった。絶望的な状況の中、フィリピン方面の海軍航空隊司令だった大西瀧次郎中将の断腸の決断により、「神風特別攻撃隊」が誕生した。
1944年10月25日、関行男大尉が率いる最初の神風特別攻撃隊はフィリピンへ侵攻した米艦艇に突入し、護衛空母2隻を撃沈破する戦果を挙げた。
その後、終戦までに特攻は続けられ、連合軍の艦艇48隻撃沈、310隻撃破という損害を与えたものの、当時の連合軍の戦力から言えば微々たるものであるが、連合軍兵士の心胆を寒からしめ、かなりの人数が精神障害に悩まされたという。
終戦の日、「神風特別攻撃隊」を編成した大西瀧次郎中将は、特攻隊戦死者及び遺族への謝罪を記した遺書を残し割腹自殺をした。また「菊水」作戦において多数の特攻機を出撃させた第5航空艦隊司令長官の宇垣纏中将は、最後の特攻機に同乗し米艦隊へ突入し戦死、桜花特別攻撃隊司令の岡村基春大佐も、鹿屋基地において自決した。